地球絶景紀行 ― コーカサスの天上の教会 ―

目次 

 

1.ジョージアの概要

今日は2012年8月24日放送の地球絶景紀行で紹介されたジョージアグルジア)について調べてみた。wikipedia:ジョージア

黒海カスピ海に挟まれている南コーカサス(英語)地方に位置している(ロシア語ではカフカス地方と呼ばれる)。ヨーロッパとアジアの挟間にあたり、古代より数多くの民族や王国がこの地に勃興した。

紀元前に成立したイベリア王国の治世にキリスト教化が始まる。

4世紀にはアルメニア王国に続いて世界で2番目に古い国教化がされた。

東ローマ帝国との繋がりが強かったが、ゾロアスター教ササン朝イスラム教徒であるアラブ人の侵攻を受ける。政治的には支配下となっても山岳地帯の多いジョージアには他教の影響は小さかった。

 

その後もジョージアにルーツを持つキリスト教の王国と他地域の異教徒が交互にこの地を支配する。10世紀に国名のルーツとなるグルジア王国が成立。12世紀末~13世紀にかけて活躍したタマル女王時代が王国の最盛期であった。

その後もモンゴル王国、チムール朝、オスマントルコなどの攻勢を受け、王国は崩壊。

コンスタンティノープル陥落後は孤立したキリスト国家となった。

近代にはイラン・トルコ・そして帝政ロシアの影響を受けるようになる。

19世紀帝国ロシアに併合。宗派的には似通った国同士であったが、長い歴史を持つジョージア語を禁止されたことに教徒たちは反発を覚える。

カフカス地方の

20世紀になると第一次世界大戦では最前線地域となる。その後ロシア革命を経てグルジア民主共和国が発足。しかしソビエト連邦の成立時には再び編入されることとなる。

 

ソ連崩壊に伴い再び独立を果たすがオセット人の住む南オセチア、アブハズ人の住むアブハジア自治権を巡って対立が激化。現在この2地域はほぼ独立した状態となっている。

ロシアとは対立路線を歩み、国名もロシア語読みのグルジアから英語読みのジョージアに変更した。

 

 

 

 

2.ジョージアの教会建築

上述のように古くからキリスト教を進行しており、歴史の古い建築物も残っている。

首都ティビリシの北にあるムツヘタはイベリア王国の都で、ここにあるスヴェティツホヴェリ大聖堂は4世紀に木造の教会が建立されたと言われる。その後11世紀に現在の石造り大聖堂が建てられた。ジョージアで2番目に大きな教会で要塞としても使用されていた。キリストの着衣が埋められているという伝説も持つ。 

 

同じエリアにあるのがサムタヴロ修道院。こちらも古くからある教会で国王で初めてキリスト教徒なったミリアナ王の墓所となっている。

 

二つの教会から見てクラ川の対岸にあるのがジワリ修道院。4世紀に伝道者ニノが建てたと言われる十字架が残る。小高い丘の上にあり、町を見渡すこともできる。

現在の建物は6~7世紀ごろに建てられ、ジョージアの教会建築のモデルになったと言われている。

 

ジョージア南部、アゼルバイジャンとの国境を一部跨ぐ敷地を持つダヴィド・ガレジ複合修道院。岩をくりぬいて礼拝堂や居住スペース、食堂などが建設された。

6世紀に造られて以降宗教・文化の中心地として発展。内部のフレスコ画も含めて美術・歴史的観点から極めて高い評価がなされている。
 

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最後はジョージアの北方の山間にあるツミンダ・サメバ教会。 

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こちらはロシアとの国境近く。1799年にロシア帝国が開いた軍用道路と呼ばれるティビリシ~ウラジカフカスへとつながる道路を進み、5000m級の山々を望む場所にある。

14世紀に建てられ、戦乱の時代には貴重な宝物をここに隠したと言われる秘境。

現在もふもとの村から舗装の無い道を延々と進まなければ辿り着けない、ジョージアあるいはコーカサス地方を代表する絶景である。
 

 

 

世界ふれあい街歩き ― ボストン ―

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1.ボストンの概要

今日は2008年10月23日放送の世界ふれあい街歩きで紹介されたアメリカのボストンについて調べてみた。

wikipedia:ボストン

 

ボストンは1630年にイングランドからやってきた清教徒達が築いた町。

植民初期から続くアメリカでは有数の歴史ある町である。

当初は国際貿易港として栄え、アメリカ独立戦争の端緒となった町でもある。

19世紀には製造業が主となり、特に被服や皮革製品が盛んであった。

この間臨海地域の埋め立てが進み、都市の面積は3倍にもなっている。3つあった丘のうち二つは埋め立てに使われてなくなり、唯一ビーコンヒルだけが今も半分の高さを残している。

 

 

20世紀になると工業は衰え、現在は金融や歴史的な街並みを主とする観光などが盛んである。

また近隣地域を含めると高等教育機関が数多く、世界をリードしている学問も多い。その影響でハイテク企業もこの地に集まっている。

 

ボストンの町並み

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2.ボストンの観光地

初めてのボストン観光でまずおすすめなのがフリーダムトレイル。赤煉瓦の埋め込まれた道を辿っていくと、アメリカの歴史に深く関わる市内の16か所の観光地を巡ることができるようになっている。

 

スタート地点にあるのがボストンコモン。イギリス軍のキャンプ地で独立戦争の始まりであるレキシントン・コードの戦いは、ここから出撃したイギリス軍が引き起こした。

現在はアメリカ最古の都市公園として市民に親しまれている。

 

次はマサチューセッツ州会議事堂。フェラデル様式の名作の一つとされ、レンガ造りの庁舎は4度にわたる増築を行い今なお現役である。

ちなみに旧マサチューセッツ州会議事堂は博物館に転用されていて順番的には9番目となる。

 

続いてのパークストリート教会は尖塔が印象的な約200年前に建てられた教会。建設当初は全米で最も高い建物であった。

 

その横に隣接するグラナリー墓地ポール・リビアやサミュエル・アダムズなどアメリカ独立戦争に関わった多くの人々が埋葬されている。

 

キングスチャペルと墓地は市内最初の聖公会の教会堂。コロニアル様式の代表的な建築物。隣接する墓地はボストンで最初に設置された墓地。開拓と発展に大きな役割を果たした人々が埋葬されている。

 

次は独立宣言を草案したベンジャミン・フランクリンの銅像旧ボストンラテンスクールアメリカ最初の公共学校であったボストンラテンスクールの前に建てられている。

 

続いてオールド・コーナー書店。歴史的商業ビルの一つで、19世紀にはアメリカを代表する出版社であるティックナー&フィールズが入居していた。チャールズ・ディケンズの打ち合わせなども行われていた。

 

次はイギリスの植民地政策に反発し、ボストン茶会事件を引き起こした人々が集まっていたオールド・サウス集会場。現在は博物館となっている。

 

茶会事件の前に起こったイギリス軍が誤解によって暴動を起こした民衆に発砲した地であるボストン虐殺地跡。路上にマンホールのような円形の石が設置されている。

  

公設市場であり、後に会議場となったファニエルホールと後日市場として増築されたクインシーマーケット

  

独立戦争の英雄の自宅だあるポール・リビアの家はボストンタウン最古の家屋。

 

赤煉瓦と尖塔の白い先端が印象的なオールドノース教会

 

ボストンで2番目に古いコップズ・ヒル墓地

 

海軍の帆船が博物館となったコンスティテューション号

 

独立戦争の主な戦いであったバンカーヒルに国内最初の記念碑として建てられたバンカーヒル記念塔

 

以上がフリーダムトレイルの名所である。

 

その他にもリチャードソン・ロマネスク様式の原型となったトリニティ教会。日本の作品も数多く収蔵されているボストン美術館レオナルド・P・ザキム・バンカーヒル・メモリアル橋ボストン歌劇場など名所に事欠かない。

 

 ハーバード大学マサチューセッツ工科大学など高名な大学も近隣に位置している。

 

 

 

天塩町 ― 天塩川とシジミと酪農 ―

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1.天塩町の概要

今日は天塩町について調べてみた。

wikipedia:天塩町

 

人口は3千人弱。天塩川の河口に位置する。

河口付近には古代より人々が定住し、遺跡も残っている。

長く発達した砂嘴が天然の堤防となり、優れた港があったことからアイヌのコタンが築かれていた。

1615年頃には天塩場所が設置され、交易場・松前藩出先機関であった運上屋が設置された。

明治の初めには水戸藩の支配地となるが根拠地は苫前に置かれていた。

 

1877年天塩駅逓が設置される。

1880年に天塩村が開基。

天塩川の舟運によって運ばれる木材の集積地となり離島へ供給していた。

また、1900年前後から移住者を募るようになり市街地が形成、さらに内陸部へも開拓が進む。

同時期に小樽と定期航路が結ばれ、道北の中核の一つとして繁栄。

内陸部にも1903年にケプシ(現在の作返)、オノプナイ(雄信内)に駅逓や渡船場が設置。1924年には南雄信内にも駅逓が設置された。

1903年に遠別村、1909年には幌延村、沙流村(現豊富町)が分村。

1915年に二級町村制施行。1924年に一級町村制施行し町政に転換。着々と発展が進む。

ニシン漁は衰えたものの、農業・漁業は順風であり戦争後も着実に人口は増えていたが、1960~70年代頃から減少に転じる。

この頃水稲を放棄し、大規模酪農に転換。現在もシジミ漁と並んで町の主要産業となっている。

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カントリーサイン天塩川で牛がシジミ採りをしている。

シンプルだがわかりやすいね。

 

2.天塩町の交通

長らく舟運が主要な交通手段であった一方、旭川稚内間の鉄道敷設の誘致を試みるも、天北線・宗谷本線共に失敗に終わる。天候に大きく左右される船に比べ、当時鉄道は極めて安定的な輸送機関であった。

大正時代後期からは天塩沿岸鉄道を請願、後の羽幌線となる。

1932年、ついに幌延~遠別間の工事が開始。

1934年に天塩駅まで開通。これにより物流を一手に担っていた天塩川定期航路・小樽航路は不要となる。小樽との結びつきが強かった天塩町だが、徐々に旭川との繋がりが深まっていく。

羽幌線開通後も農水産物の搬出を主としていたが、沿線人口の減少・路線の主要輸送物であった石炭が炭鉱の閉山で全く産出がなくなってしまうなどの影響で1987年廃線

町内には更岸駅、天塩駅、北川口駅、振老駅と中川口・西振老・作返の仮乗降場が設置されていた。

 

町内は沿岸部を走る国道232号線と内陸部を走る国道40号線が南北に縦断しており、幌延町との境界付近で合流している。

市街地の国道沿い、旧天塩駅跡に道の駅てしおが設置された。

 

3.天塩町の観光

古くより交易の中心であったため、江戸時代以降の主要建物跡(運上屋、天塩駅逓、松浦武四郎宿営地、雄信内渡船場跡、振老渡船場跡)が史跡に指定されている。

 

市街地近くには天塩川の旧河道だった鏡沼に海浜公園キャンプ場、松浦武四郎像、てしお温泉夕映などがあって町外の人も多く訪れるスポットになっている。

 

続いて天塩川河口近く。古代の遺跡で、竪穴式住居を復元し遊歩道を整備した川口遺跡と風景林や、広大な芝生が広がる天塩川河川公園など。

日本海を眺めながらのんびりできる。

 

かつての町役場建物だった天塩川歴史資料館には天塩川の舟運で活躍した長門船の復元模型など興味深い展示が並ぶ。

 

 

 

空から日本を見てみよう ― 有田~武雄 ―

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1.有田町

今日は2015年4月28日放送の空から日本を見てみようで紹介された佐賀県の有田町~武雄市について調べてみた。

最初は有田町。wikipedia:有田町

 

人口は2万人弱。

長崎県との県境に接し、町土の約7割が森林・山岳地帯となっている。

言わずと知れた有田焼の産地である。

豊臣秀吉朝鮮出兵に参戦した領主鍋島直茂は陶工たちを連れ帰ってきた。17世紀初め、その中の一人である李参平は白磁鉱を発見。近隣に天狗谷窯を開き有田焼の祖となった。

彼を祭神とする陶山神社は磁器でできた鳥居などが文化財として指定されている。

 

江戸期を通じ伊万里港から出荷された有田焼。陶工たちの町となった名残は幾つも残っている。

まずはトンバイ塀と呼ばれる、変わった塀。

登り窯を作るために使った耐火煉瓦や廃材を赤土で塗り固めて作られた塀である。

 

有田を代表する豪商であった田代家が、明治初めに買い付けにやってきた外国人の宿泊用に建てた施設が旧田代家西洋館(有田異人館)。和洋折衷の建物はこれも文化財に指定されている。

 

同じ頃に建てられた石倉を活用しているのが有田陶磁美術館

現在は収蔵品の展示を通じて有田焼の歴史を概観できる施設となっている。

 

陶工達の町から少し離れ、JRの有田駅近く市街地付近にあるのは佐賀県立九州陶磁文化館肥前及び九州全域の陶磁器について収集展示のみならず、調査研究・教育普及の場として設立された。

 

町の北には名勝地の竜門峡。新緑や紅葉が映える渓谷美が人気。

名水の地としても知られている。

 

2.武雄市

次は武雄市wikipedia:武雄市

人口は約4万7千人。

 

盆地や川沿いの平地が入り組む地形で、農業が盛ん。

おつぼ山には朝鮮式山城の跡とされる神籠石列石が残る。現在の研究では白村江の戦に関連して築城されたものと考えられている。

時代がくだって江戸時代には鍋島家の領地となった。武雄鍋島家の菩提寺である円応寺は桜並木が有名。

居城であった塚崎城の裏手にある御船山を借景として、28代鍋島茂義が造った庭園は現在も15万坪を超える巨大な池泉回遊式庭園の御船山楽園として四季折々の景色が人々を楽しませている。

 

その手前にも日本庭園が築かれた。こちらは昭和後期に中根金作が作庭した慧州園

御船山と茶畑、そしてこれも池泉が印象的な造りである。

 

また、武雄市文化会館にも武雄鍋島家の旧庭園が残されている。

 

庭園が多い武雄市だが、1200年前に開湯されたという武雄温泉が町の最大の名所。

江戸時代には街道の宿場町として栄えた。大正時代に辰野金吾が設計した武雄温泉楼門新館は国の重要文化財に指定されている。

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中心部から少し離れた池ノ内湖には武雄温泉保養村佐賀県立宇宙科学館などが建てられ、桜やホタルも楽しめるレジャーエリアとなっている。 

 

 

 

地球絶景紀行 ― グレートバリアリーフ ―

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1.グレートバリアリーフの概要

今日は2012年8月17日放送の地球絶景紀行で紹介されたオーストラリアのグレートバリアリーフについて調べてみた。

wikipedia:グレートバリアリーフ

 

グレートバリアリーフとは、オーストラリアの北東海岸に広がる世界最大のサンゴ礁

漢字では大堡礁(だいほしょう)と表記する。

海岸線に沿って2600kmを超える長さ、3000近い暗礁群と約900の島を持っている。

 

微小なサンゴやポリプが作り出した構造物で、生物が作り出した単一のものとしては世界最大。域内の大半は海洋公園に指定されている。

周辺の海域は2400万年ごろ前に熱帯へと変わり、珊瑚の成長が一部で始まった。その後地殻変動や土砂の堆積など地形の変化を経て、現在生息しているサンゴ群は約2万年前から成長を始めたと推定されている。

先住民族アボリジニトレス海峡諸島の住民はこの生態系豊かな海を長く利用、共住し続けている。

 

2.グレートバリアリーフの観光地

ケアンズの近くにあるグリーン島グレートバリアリーフの観光地の中で最もアクセスが良い。高速船でわずか45分、さらにグレートバリアリーフの中で唯一サンゴ礁の上に熱帯雨林が茂っている島である。マリンレジャーの他に森の中を散策もでき、宿泊施設も整備されており、観光客がまず訪れる場所だ。

 

グリーン島の北にあるのはミカエルマス・ケイ。外洋に近く、より人間の影響を受けていないアウターリーフと呼ばれるエリアに属する。

ここは長さ360m、幅50mの砂州シュノーケリングなどがお勧め。

 

一方南にあるのがフィッツロイ島。ここはサンゴ礁の島ではなくかつては大陸と地続きだった場所。約6千年前の海面上昇で海に取り残されて島となった。

太古の原生林が今も姿を残し、美しいビーチと周囲のサンゴ礁を楽しむこともできる。

 

グレートバリアリーフの中央部で最大の観光地がハミルトン島

北部、南部それぞれの生態系を見ることができる火山岩に覆われた大陸島。

ジェームスクックが発見した安全な航路の目印であり、宿泊施設も整備されている。

世界で最も美しいと言われるホワイトヘブンビーチやハートの形をしたサンゴ礁、通称ハートリーフへのアクセスも良い。

ホワイトヘブンビーチは二酸化ケイ素を主成分とするシリカによってできた白い砂浜が特徴。近隣にはシリカを含む岩石はほとんどなく、海流によってここに運ばれてきたそうだ。

文字通りハートの形をしたハートリーフ。

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周辺は人間の接近が禁止されており、この眺めを見るにはヘリコプターか小型飛行機を利用するツアーの参加が必要だ。