目次
1.志村鐡一の碑
某月某日。ようやく寒さもおさまり自転車に乗れるような天気になってきた。
今回は札幌駅に行く用事があったので、ちょっと遠回りして寄り道してみる。
まずは豊平橋近く、志村鐡一の記念碑からスタート。
ホテルの敷地片隅に大きめの石碑が建てられている。
碑文には札幌開祖とある。
1857年に江戸幕府が札幌越新道(銭函~豊平~勇払)を開削。
難所の一つであった豊平川を越えるため、川の両岸に渡し守が住むこととなった。
このうち右岸に居を構えたのがこの碑にある志村鐡一の一家だとされる。
現在の札幌市域にアイヌのコタンや交易場所はあったようだが、正式な和人の定住者となると上の豊平川渡し守達が一番初めとなるらしい。
石狩調役の荒井金助は石狩地方一帯の調査・開発で活躍。
江戸時代末期におけるこの地方の最重要人物であったようだ。
2.豊平橋
すぐそばには豊平橋の案内板も建っている。
この一帯では最大の暴れ川であった豊平川。
明治初めころまでは橋を架けることもままならず、お雇い外国人たちによって木造橋が架けられるも融雪や荒天による増水で幾度も流される始末。
1898年岡崎文吉設計で初の鉄橋がかかるも、再び洪水で橋脚の土台がえぐられる。
その後しばらく応急措置でしのぐこととなった。
そして1924年岡崎の師匠ともいえる廣井勇の指導によってついに永久橋が架けられた。
第二次大戦後交通量の増加によって橋の架け替えが決定するまで、長年に渡り人や車、そして市電もこの橋を渡ることとなる。
廣井勇は当ブログでも何度か紹介しております。
3.志村鐡一翁居住の碑
豊平橋から少し下流へ進む。
緑地帯の中に見逃してしまいそうな目立たない木製の碑が建てられていた。
T字路のすぐわきに建てられているこの碑。光の加減で何と書いてあるか読めないが、志村鐡一の居住の地に建てられた碑である。
現在は札幌の開祖と称えられているが、明治維新後は新政府と折り合いがあまり良くなかった様子。
旧幕府に任命された役とあって、維新後は渡し守の任を解かれたらしい。
その後は、この地で静かに没したとも、定山渓へ向かう途中で失踪したとも伝えられている。
4.吉田茂八の碑
最後は豊平川左岸へ渡る。
豊平橋のたもとに建てられているのはもう一人の渡し守にして札幌開祖、吉田茂八の碑である。
志村鐡一と同じく1857年に渡し守の任につく。
こちらは維新後も明治政府とうまくやっていたようで、1870年には創成川の掘削工事を一部請負、その後も建設業を営んで奉公人も抱えていたそうだ。
今は道内最大の都市、日本国内でも有数の人口を誇る町となった札幌。にも関わらず開祖と呼ばれる彼らについてはあまり知られていないのかもしれない。