目次
1.ななめ通り
苗穂駅北口から少し西へ戻る。
北8条通沿いにある、とある説明板に到着。
ここは札幌開拓の初期からある古い道の痕跡。
そのことを記す説明板を読んでみる。
「東区ななめ通り」と題された説明板。
地図や写真、そして文章が記された丁寧な作りである。
開削当初は石狩街道又は茨戸街道と呼ばれていた。
その後、現在の創成川沿いの通り開通時に名称を譲り元村街道と呼ばれるようになる。
当初は北一条東6丁目が起点だったが、1887年帝国製麻の工場(説明板に控除の写真あり)が設立された時に現在の北七条東3丁目が起点となった。
今昔マップより
1916年の地図を見ると伏籠札幌川に沿って作られたこの道沿いに住宅が建っているのがわかる。北東へ進んで行くとほぼ建物はない様子。農地または原野と川の間に通された道だったのだろう。開削当時は湿った原野をまっすぐに抜けるような技術はなく、自然堤防の上を選んで線形を定めたようだ。
起点には製麻会社の文字も見える。
時代は下って1960年代の写真。北13条付近までは都心部の範囲内と言えそうだが、その先は明治・大正とあまり変わらず道沿いに住宅が並ぶが、その周りは農地が広がっている。これより数年前に道道273号花畔札幌線に指定されている。
1970年代になると直線道路が徐々に整備され、現在の苗穂・丘珠通りを分岐点に都市部と農地部が分かれている。伏籠川も河川工事で一部は暗渠化された。
現在の地図ではほぼ碁盤の目状となった地域において、この道と伏籠川の暗渠上部を通る道だけがかなり異質な線形で極めて目立っている。
成り立ちを知らないと不思議でしょうがなく、時には混乱を招き厄介にも思えるような道だが、重要な道であったのだ。
2.早川清太郎と大友亀太郎
ゆかりの人物について。
見切れてしまったが、一人目は早山清太郎。
福島出身で松前城工事の人夫として渡道。
幕末に現在の西区山の手付近に就農し水田耕作に成功。
後に現在の篠路へ移住し伏籠札幌川沿いに道路を開通。札幌中心部から北へ向かう最初の街道となった。
二人目は大友亀太郎。
神奈川の農家に生まれ、後に幕臣となる。
上の早山清太郎の案内で石狩原野を調査、現在の東区付近における開墾を計画。
豊平川から引水する大友堀を建設するも稲作は挫折。人物伝の上方に写真がある。
明治維新後は帰郷し地元のために貢献した。
3.現在のななめ通り
さて一時は札幌都心部と北東の農地をつなぐ唯一の道であったこの場所、玉葱栽培が始まったころは、運搬馬車が行きかい人の往来も多い賑わいのある道であった。
商店なども数多かったようだが、現在はかなり減少。
日ハムの練習場が移転してきたこともあり、ファイターズ通り・ファイターズ通り商店街などと改称して賑わいを取り戻そうとしているらしい。
だいぶ寂しい雰囲気ではあるが、通好みな味のある店が居を構えている様子。