目次
1.南幌町の沿革
今日は南幌町(ナンポロチョウ)について調べてみた。
人口は約7千人。
数千年前までは海だった石狩低地帯に属する。
アイヌ語で入り江・湾・川が湾曲して緩やかに流れるところなどを意味するホロムイ(ポロモイ)が語源とされる。
明治維新から少し経った1886年、新潟から現在の江別太付近へ移住してきた人々がいた。越後村という地名をつけるが、平坦なこの土地は湿地帯であり開墾には不適。
当時はアイヌの人々もこの地にはほとんど住んでいなかったらしい。
やがて付近のアイヌの人々から江別川上流の夕張太という地を教わり1888年頃移転することになる。
やがて現在の岐美地区に岐美植民社・美濃開墾・後藤開墾などが入地。晩翠地区にも入地者が出始める。
当時の入地者たちは江別から船でやって来た。あるいは、岩見沢まで鉄道で向かいそこから栗沢を経由して徒歩でやって来るというルートだったそうだ。
1893年 旧角田藩主石川邦光が現在の南幌町市街部に移住。約250人の石川団体を率いて開拓に従事。しかし約2年後入植に反対していた妻が土地を売却してしまう。
土地を購入した松井倉蔵は引き続き道路・排水路・堤防などインフラを整備しながら開拓に努めた。
人口増もあってこの年に岩見沢戸長役場から独立して幌向村戸長役場が設置される。
周囲は小さな官庁街となり、続いて小規模な商工業者が現れ村民の大半がここで買物をするようになった。
1909年 二級町村制施行。
農業を主産業とするも水害に悩まされ続ける。
1968年 町制施行。同時に南幌町に改称する。
岩見沢市にも幌向町があり、混同を避けるため南幌向→南幌という地名とした。
長く過疎地帯として指定されていたが1990年代札幌のベッドタウンとして開発され人口が2倍近くに急増。
2003年由仁町・栗山町と合併協議会を設立し、東さっぽろ市の設立を目指したが長沼町が参加せず飛び地となる南幌町は住民の反対が多く断念。協議会も解散した。
現在も主産業は農業。カントリーサインも川沿いにポプラ並木が続く田園風景となっている。
2.南幌町の交通と治水
1912年幌向駅逓が設置され旅客の宿泊・貨物運送などに寄与した。
1926年改築するも1930年の夕張鉄道の開通によって利用が減り、1931年廃止となった。建物は今も残り登録有形文化財となっている。
その夕張鉄道は野幌~夕張間で石炭運搬を主目的に敷設された。
1926年にまず夕張~栗山間が開通。1930年に野幌~栗山間が開通して全線開業。
南幌向駅・晩翠駅も開業した。
1968年町制施行時に名称をみなみほろ駅からなんぽろ駅に改称。
農産物の搬出など町の中心を担っていたが、石炭産業が下火になり、モータリゼーションの普及もあって1974年全線で旅客営業廃止。翌年貨物も廃止となって廃線となった。
鉄道開通までこの地域の物流を担っていたのは舟運。
1895年夕張太に正式に設置された渡船場は野幌との連絡を長く担い、1968年まで使用されていた。
泥炭地のこの辺りは道路を開くのにも難儀した。
今のような技術の無い時代、当時選ばれたのは物資を運びかつ排水機能も持つ運河の建設だった。
1894年旧夕張川と千歳川を繋ぐ目的で掘削された幌向運河は今もその姿を残している。
当時は水面の高低差が大きく、閘門を設置した。しかし土砂の埋設が激しく全線利用は難しかったようだ。とはいえ利便性は高く駅逓も運河の乗降口に設置されていた。
1926年夕張川の新水路完成により運河の水量が激減し排水路化。
その後改修を重ね町内を統括する大排水路及び灌漑用水にも利用されている。
この夕張川、元々は今の旧夕張川の流路で千歳川に合流。幅も狭い千歳川は夕張川の水量が増えるとすぐに逆流し付近一帯は洪水の被害が頻発していた。
1910年夕張川を石狩川に流す新水路の計画が立てられるも資金難で1926年まで着工延期。この工事を完成に導いたのが廣井勇に指導を受けた保原元二。
北海道庁の技師だった彼は新水路計画を作成し、工事の指揮も行った。
泥炭地では堤防を築くために土を盛っても一晩建つとかなりの量が沈んでしまう。
実際の高さより10倍の量もの土砂を埋めたところもあったようだ。
また重機や軌道も沈んでしまうため人力が主だったようだ。
この難工事を1936年に完成させた彼は翌年我が事終われりとの言葉を残して道庁を退職。その後は趣味を生かして古美術商なども営んだという。
この治水工事により南幌町や長沼町の水害は激減し、農地も増えた。
夕張川新水路の河川敷に造られた公園には記念碑と胸像が建てられ、毎年治水感謝式を執り行っているそうだ。