和寒町 ― 雪の下のキャベツ ―

目次

 

1.和寒町の概要

今日は和寒町(わっさむちょう)について調べてみた。

wikipedia:和寒町

 

人口は約3000人。

名寄盆地の南端に位置し、丘陵地が多い。年間の寒暖差は最高で60度を超す。

南は塩狩峠、北はペンケペオッペ川・剣淵川、辺乙部川、六線川が町境となっている。

農業が基幹産業で、水田・カボチャ・雪の下で保存する越冬キャベツなどが盛ん。

 

カントリーサインクロスカントリーをするトマト。

ふるさと納税のお礼にトマトジュースが選ばれるなど、トマト栽培も行っている。

 

ワッサムという珍名はオヒョウニレの木を表すアイヌ語が由来。

福原地区などは-41℃を記録しており、町名の通り冬は驚くほど寒い。

 

 

2.和寒町の沿革

江戸時代の探検家、近藤重蔵が1807年の調査の際、ここに野宿し亡くなった従者を葬ったとされる。現在石碑が建っている。

最後の探検となったこの調査の際、函館から稚内まで進んだ後に天塩川石狩川を遡って帰途に就いた。江戸に帰還後、現在の札幌周辺を蝦夷地の本拠とするべく将軍に上申しており、明治後の札幌開拓の要因の一つとなった。

 

時代を経て、最初に和人が定住したのは1897年。

2年後、鉄道が開通し和寒駅が開業。士別・剣淵に屯田兵村が設立され和寒駅前には小市街ができた。この頃は剣淵村の一部。

1901年には西部のペオッペ原野へ入植始まる。町内では初めての団体入植で、以後は毎年各地に入植があった。

1908年 幌加内及び町内西部地区と和寒駅との間の道路が開削。

西和地区にペオッペ駅逓が設置され、1928年まで開業していた。

道路の開通により、市街へ農産物の流通が増加。和寒駅利用者も増え始めた。

 

人口増により分村運動が活発化し、1915年 剣淵村より分村決定。

大正期には除虫菊の栽培が盛んで、日本一の生産量を誇った。

戦後は中国での生産が盛んとなるが、寒冷地に適した稲が改良され、菊畑は水田に入れ替わっていった。

1952年町制施行。戦後は木材加工が産業の中心となっていった。

3.和寒町の観光地

町内は農地が広がり、観光地は少ないが最も有名な場所は塩狩峠

蒸気機関車時代に難所で知られたこの峠は三浦綾子の小説で有名となる。

 

現在は昭和の香りを残す駅舎と、三浦綾子の旧家を復元移設した記念館が建てられ、町のシンボルとなっている。

 

ゴーカートなどの遊具とキャンプ場のある三笠山、貯水池のほとりに整備された南丘公園などが、控えめなレジャースポット。