道北をいっぱい巡った。 ― 樺岡駅跡 ―

目次

 

1.樺岡駅跡

恵北駅跡を出て道道121号線を南下。丘陵地帯に牧場が広がり、まばらに家が建っている。天気も快晴で絵になる風景とはこのことだろう。

さて、次の目的地は同じ天北線の樺岡駅跡。

 

 

駅跡に行くためには民家の敷地を通らなくてはいけないので、車を道路脇に停めて遠くから写真を撮ろうと四苦八苦。

そうしているうちに、なにか文章が書かれた看板があるのに気づく。

 

「 旧樺岡駅の看板を見に来た人へ 

 ご自由にお入りください 」

 

なんとまあ心の広いこと。

お言葉に甘えて敷地に入る。

犬の世話をしている若い女性がいたので、お邪魔しますと声をかけて駅跡を見させてもらった。

 

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ここも駅名標のレプリカが線路跡に建てられている。

どういう経緯でレプリカが建てられることになったのかはわからないが、なんの役にも立たない廃線ファンをもてなしてくれるようなこのサービスに頭が下がる。

 

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藪の向こうにある線路跡を撮ろうとしたが、カメラの設定を間違えてかなり暗くなってしまった。

線路跡は何か工事をしている様子だったが、いったい何だろう?

耕地にでもするのだろうか。それともサイクリングロード?

 

先ほどの女性にお礼を言って樺岡駅跡に別れを告げる。

今後訪れる人も折角の厚意を無下にしないよう、迷惑をかけずに行動しましょう。

 

ところで道道沿いには本物の駅名標が移設されていたようだ。

 

これは2014年の画像。現在でもあるのかどうかわからないが、風雪に耐えボロボロになりながらも建っている姿はピカピカのレプリカとはまた違った眩しさを放っているようだ。

 

2.樺岡駅と近隣の歴史

樺岡地区の開拓は1910年代、明治末期に始まる。

樺岡駅は1922年当時の宗谷本線の開通に伴い一般駅として開業。

鉄道開通後は丸太の輸送で活気づいた。

農業は振るわなかったが、戦後牛乳の列車輸送が行われ酪農が盛んになっていく。

 

しかし、1973年貨物取扱廃止、旅客無人化。

1986年交換設備撤去、運転業務も完全無人化となる。

1989年天北線廃止にともない廃駅。

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。

 

木造駅舎と駅前広場があった。

この頃はすでに貨物が廃止、駅裏のストックヤードも自然に帰り、副本線も引込線となっていた。

駅の道路を挟んだ北東には2001年に廃校となった樺岡小中学校も写っている。

 

樺岡駅の画像

 

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道北をいっぱい巡った。 ― 宇遠内駅跡~恵北駅跡 ―

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1.宇遠内(うえんない)駅跡とその歴史

副港市場を出て国道40号を東へ向かう。次は宗谷岬・・とも思ったが、今回は断念し廃線となった天北線の駅跡を辿ることにした。

ウエンナイ川を渡って最初の交差点にはかつて天北線の宇遠内駅があった。

 

ここは何の跡も残っていないので気づくこともなくスルー。

 

ストリートビューで見るとこんな感じ。

 

向かって左手が宇遠内駅跡。

右手にある標識には天北通とある。天北線市道に変わったようだ。

 

宇遠内駅は1955年仮乗降場として開業。

1987年国鉄からJRへの民営化時に駅に昇格。

そのわずか2年後天北線の廃止に伴って廃駅となった。

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。

 

仮乗降場としては長めのホーム。

待合室等はなかったようだ。

 

宇遠内駅の画像

 

2.声問(こえとい)駅跡とその歴史

国道40号線から国道238号線に進路を変えて東へ進む。

天北線の次の駅は声問駅。

 

現在の地図で見ると国道沿いに駅があったように見えるが、天北線のあった頃はこの国道が線路だった。

 

 

現在駅舎のあったところはただの更地。

痕跡は全くない。目印もなく車を停めるのも厳しいと思いまたもスルー。

 

この辺りは開拓時はアイヌのコタンがあり、1878年に声問村と命名

1887年頃から漁業者の集落もでき始める。1900年合併により稚内村となる。

明治末ごろから声問川上流の森林資源を生かし木工場ができ始めた。

後に社内用発電を拡大した火力発電所が建設され稚内市街にも使用されるようになる。

1920年頃には声問岬で石油鉱脈発見。1974年に完全閉鎖となった。

声問駅は1922年当時はまだ宗谷本線という名の鬼志別駅~稚内駅開通に伴い開業。

1973年貨物を専用線のみ取扱いとし、旅客を無人化。

1978年貨物を完全廃止。1989年天北線廃止に伴い廃駅。

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。

 

駅横に貨物引込線、駅裏に貨物専用線が設置されていた。

 

3.東声問駅跡

国道238号線から道道121号線に進路を変える。

稚内空港の目の前に1日限りの営業を行った東声問駅という臨時駅があった。

 

現在は空港施設の一部になっているらしい。

1987年6月1日、新滑走路完成の際に合わせて設置された。

ホームなどもなかったようだ。

 

4.恵北駅跡とその歴史

道道121号線をそのまま真っ直ぐ南下。

次は恵北駅跡。

 

恵北という小さな集落のはずれにあった。

 

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近年レプリカの駅名標が設置されたらしい。

航空写真で見ると線路跡らしい線が確認できる。

 

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なんとなく線路跡っぽいスペース。。だが言われてみなければわからないだろう。

 

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駅跡には恵北の開基百年記念碑もあった。

 

この地区は1900年代初めごろから林業を主とした入植が本格化。

大正期には油田、昭和初期には海軍の無線送信所もあったという。

恵北駅は声問駅同様1922年に宗谷本線の鬼志別駅~稚内駅開通に伴い開業。

当時は幕別駅という名であった。天北線の西側を並行して流れる声問川が当時は幕別川という名だったことが由来。

駅を中心に市街ができるが戦後は徐々に縮小していく。

 

1963年駅名を恵北駅に改称。

1973年貨物を専用線のみ取扱いとし、旅客を無人化。

1978年貨物を完全廃止。1989年天北線廃止に伴い廃駅。これらも声問駅と同じタイミングだった。

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。

 

かつては2面2線の交換可能な一般駅だったが、この時点ではホームは駅舎側のみ。

向かい側は引込線と化しているようだ。

駅舎横にも引込線、駅裏側には副本線もあったようだが、この時点ではスペースがあることだけを確認できる。

駅正面の山から伐採された木材の出荷駅でもあったようだ。

 

恵北駅の画像

 

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道北をいっぱい巡った。 ― 稚内副港市場 ―

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1.稚内副港市場

さて、次の目的地は稚内副港市場という商業施設。

 

 

かつての第一副港に土産物・食事処・入浴施設・港ギャラリー・FMわっかないなどが入居し観光拠点とすべく設置された。しかし来場者減少により2020年3月に店舗が大部分閉鎖となってしまった。

 

2.ギャラリー

ギャラリーは健在。

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稚内港駅の駅舎を復元。

 

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現役時の駅舎写真。

 

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最初は連絡船待合所→稚内港駅として連絡船へ接続。

 

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稚内桟橋駅はわずか6年の利用に終わる。

現在公園になっているところが貨物のホームだったというわけ。

 

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旅客ホームや待合室の写真。

復元前の北防波堤ドームの写真もなかなか貴重かも。

 

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稚内の港と樺太の本斗(現在のネベリスク)港・大泊(現在のコルサコフ)港。

稚内~本斗は北日本汽船の稚斗航路で樺太西線と接続していた。

 

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当初は待合所から曳船タグボート)による艀(ハシケ)輸送。

艀とは輸送に使われる推進能力のない船のこと。

 

北陸新幹線の車両を艀に積み込む様子。

 

 

 

 

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この頃は現在の稚内駅付近はすぐ海。

今の開運地区辺りは埋立地ということだろう。 

 

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乗船口もしっかり再現。 

 

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駅スタンプ?大泊港駅が描かれているのだろうか。


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宮沢賢治も乗船したらしい。

教師だったころ樺太王子製紙に努める教え子を訪ねて行ったらしい。

また、この前年に妹を亡くしており彼女の魂を追い求める旅という説も根強くあるそうだ。鉄道や鉱物好きな趣味も影響していたのかもしれない。

 

岩手で宮沢賢治にまつわる場所とかにも行ったのを思い出す。 

 

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建物の中には巨大な船のモニュメントも。

第一副港丸っていう船があったわけではないと思うが、何かモデルになった船があるのだろう。

 

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外には錨のモニュメント。これもレプリカなのかな。

 

3.樺太の鉄道 

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改めて見ると樺太って相当細長いよねー。

ブラタモリで行ってもらいたいが難しいだろうな。

南北約950km。北海道より面積は若干狭いそうだ。 

 

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江戸~明治初期にかけては日本とロシアがごちゃごちゃしていたようだが、1809年間宮林蔵樺太が島であることを確認。世界史の記録に残るものとしては初めてということになる。1875年樺太・千島交換条約樺太は完全にロシア領となる。

1905年日露戦争後のポーツマス条約で北緯50度以南の南樺太が日本領となる。

1945年8月25日、ポツダム宣言受諾後も続いていたソビエトの攻撃が終了。

今も正式な条約は結ばれていない。

 

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樺太の鉄道について。

 

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路線図。樺太東線は約410km。樺太西線は約170km。

どちらも海岸線に沿って建設されている場所が多い。

 

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樺太庁は官庁かつ行政区画でもあり、都道府県と同じような機能を持っていたようだ。

 

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樺太にあった駅舎と鉄道局。

どちらもかなり立派な建物。特に豊原駅はかなり大きくて貫禄のある造り。跨線橋が小さく見える。

 

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豊原は現在のユジノサハリンスク

 

 

現在は近代的な駅舎に生まれ変わっている。

 

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樺太で使われた車両は日本の車両と異なる採番方式だったよう。

 

平取町の振内駅跡には樺太で使われたSLが今も保存されている。平成になって北海道に戻ってきたのだ。

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鉄道とは離れるが、当時の中学校の写真もあった。

 

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学校には見えない、きめ細かな装飾。

何となくヨーロッパ風の建物に思える。 

 

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副港市場の外観。

いくつか店舗は残っているものの、空きスペースも大きい。

どうなってしまうのだろうか。




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道北をいっぱい巡った。 ― マンホールカードと治山ダムカード ―

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1.マンホールカード

稚内のホテル美雪で一晩ゆっくり過ごし、朝早めに出発。

まずはマンホールカードをもらいに行こう。

 

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カラーマンホールは先日撮影済み。

北防波堤ドームと南極犬タロジロ兄弟が夕日の沈む利尻富士をバックに描かれている。

 

稚内市役所でカードをもらう。

 

 

さっそくマンホールカードをいただく。

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日本最北のマンホールカードをゲット。

 

 

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裏面はタロとジロの説明が主体。

第一次南極観測隊は1956年出発。十数頭のそりを引く犬たちの中にタロとジロもいた。樺太犬アイヌニヴフといった北方民族が犬ぞりや猟に使っていた犬種。

北海道ではモータリゼーションの浸透まで漁業・配達・行商などに使われていたという。その後は使途がなくなり雑種化が進んで現在では日本のみならずロシアでも純血種はいなくなってしまったそうだ。

タロとジロは隊員たちと共に南極で越冬するが、第一次引き上げの際天候不順で大人の雄犬たちが鎖につながれたまま置き去りに。餌を置いて数日後迎えに来る予定であったが、天候は回復せず犬たちを発見できぬまま観測隊は帰国することとなる。犬たちの生存は絶望視された。

 

そして1年後、次の観測隊が基地を訪れた際に駆け寄ってくる2頭を発見する。

前回の観測隊にも参加していた隊員がタロとジロであることを確認。

日本ではフィーバーも起きるほどとなった。

 

のんびりとした表情に描かれている2頭だが壮絶な環境を生き抜いた名犬なのである。

 

2.治山ダムカード

マンホールカードの次は治山ダムカード

宗谷総合振興局へ向かう。

 

 

ここでもらえるカードは利尻島のヤムナイ沢。

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利尻富士を背景にした床固工。

床固工は河川の流れによって川床の土砂が流失するのを防ぐ。

勾配の安定や土砂堆積物による氾濫を予防する効果を持つ。

 

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スリットダムは櫛や格子状の構造物を設けることで、土砂災害を軽減する役割を持つ。


ヤムナイ沢はこの辺り。

 

1年中雪が残り、利尻島内でも特に秘境感の強いところだそうだ。

 

 

道北をいっぱい巡った。 ― 夢広場 ―

美深町をスタートし、宗谷本線の駅を巡ってさらにノシャップ岬、北防波堤ドームと周った。さすがにこの日は疲労困憊。

稚内駅そばで夕飯を食べて活動終了とした。

 

この日は日曜日ということもあって、夜は閉めている店も結構ある。

少し迷ったが夢広場という市場2階の食堂に足を踏み入れた。

 

 

 

繁忙期であれば観光客で賑わっているのだろうが、この日は店内はガラガラ。

カウンターに座って店内を眺めていると客より店員さんの方が多そうであった。

座敷席もけっこうあって下に市場もあるのでお土産買ってついでに昼を食べるのに手ごろな店である。

 

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つぶ刺し定食とサラダ、ビールを一杯頼んで稚内の夜を過ごす。

 

ご覧の通り、ボリュームたっぷりとはいかないが、久しぶりにツブを食べたのと稚内ご祝儀で満足感高め。味噌汁もねぎと海藻で港町らしい味わい。

 

会計を済まそうとすると、どうやらビールの値段が含まれていない。

そのままにしようかと思ったが、稚内まで来てセコいすることも如何なものかと思い、その旨伝えると恐縮されながら訂正された。

 

お兄ちゃん優しいねぇと言われ、そんなことないですよと呟きながら店を出る。

人気のない暗い道を歩いてホテルへ向かう。

 

まだ午後9時にもなっていなかったと思うが、もう疲れ果てたおじさんはシャワーを浴びて気を失うように眠りについた。