石狩川流域ドライブ ― 榎本公園 ―

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1.榎本公園

高富ダムを見た後、石狩市から一山超えて当別町へ。国道275号に入って札幌方面へ戻る。帰りの江別市でもちょっと寄り道。

まずは石狩川を渡ってすぐのところにある榎本公園。

 

榎本武揚は幕末、五稜郭に立てこもった旧幕府軍の総大将として知られる。

本来ならば賊軍として厳罰に処されるのが当然であったが、彼の才を惜しんだ黒田清隆福沢諭吉の嘆願によって特赦を受けた。

留学などを経て幕府軍の海軍を指揮していた榎本だが、最も得意としていたのは工学や化学であった。

開拓使長官だった黒田清隆の下で、北海道の資源調査を行う。

その後、土地の払い下げを受け、この地に榎本農場・小樽に北辰社を開いた。

後年は政府の要職を歴任。明治天皇の信頼も厚かったようだ。

榎本農場は1918年、長男武憲によって小作人に開放された。

 

江別市長によって記された、立派な石銘板。

 

榎本武揚の騎馬像。

この写真ではよくわからないが、台座は星形になっている。

五稜郭を模しているのだろうか。

 

対雁と呼ばれるこの地に開かれた榎本農場は、江別開拓のはじまりとなっていた。

対雁が江別発祥の地となり、その事を記念して顕彰碑と公園が造られたようだ。

 

2.対雁百年碑

公園内には対雁百年碑もあった。

 

1871年宮城県からの移住、1876年の南樺太アイヌの移住が記されている。

樺太(サハリン)はアイヌ・ロシア人・日本人が混在。

国境線を確定できず、トラブルが頻発していた。

1875年、樺太千島交換条約によって日本は樺太を放棄、千島列島を領土とした。

日本人漁業者とつながりの深かったアイヌの人々に、日本に移住しないと日本人としての権利を認めないと北海道への移住を促された。

一旦は樺太に近い道北に居を構えるも、開拓や炭鉱に従事させたい日本政府は対雁へ集団移住を強制。定住に向けてサポートはあったものの、農業になれないアイヌの人々とあって、石狩川河口へ移る者も多かったようだ。

そんな折、コレラが集落を襲う。300人以上が命を落とし集落は壊滅状態となった。

1904年に勃発した日露戦争南樺太が日本の領土となる。樺太アイヌの人々は大半が帰っていったそうだ。

 

 

 

悲しい歴史もあったが、現在の公園は芝生の広がる静かな場所となった。

 

 

 

 

3.対雁番屋と駅逓

公園の入り口には対雁番屋と駅逓跡の標柱が建っている。

 

江戸時代、現在の世田豊平川河口付近に石狩十三場所の一つとして商場が開かれた。

江戸から明治に変わっても水運の要衝になっていた対雁。

定住者が増え始めるのに合わせ駅逓や戸長役場が設置される。

しかし、鉄道開通に伴って町の中心は江別駅・野幌方面へ移る。

これらの流行もあって、明治半ばには対雁は寂れていった。

 

今昔マップより

1916年の地図では榎本公園の場所に神社が建っている。市街地は現在河川敷になっていて、1970年頃までは小学校もあった。

石狩川の築堤工事により対雁小学校は移転している。

 

地図にあるように元々豊平川はこの場所で石狩川に流れ込んでいた。

昭和初期に豊平川の捷水路工事が始まり、下流部は旧豊平川となる。

戦後厚別川の流路変更など河川整備が行われ、旧豊平川の残存部分は世田豊平川と名を変えて現在に至っている。


石狩川流域ドライブ ― 高富ダム ―

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1.高富ダム

古潭の集落を見て周った跡、海岸部から離れて内陸方面に進む。

農地やゴルフ場の続くエリアの中にダムが二つ並んでいる。

そのうちの一つ、高富ダムへ行ってみた。

 

道道527号線がダム下流の河川を横切り、橋から見下ろすことができるダム。

 

橋から堤体を見下ろす。綺麗に芝の貼られたアースダム。

堤高はあまりなく、犬走はなさそう。

白い柵で区切られた部分は、他のホームページによるとドレンパイプによる漏水の集水池らしい。

 

下流側。河川は幅が狭く農地になっている。稲刈り後の水田のようだがどうだろう。

 

天端は立入禁止。門の外から撮影。まだ水抜きはされていないようだ。

奥に管理棟とインクラインらしき傾斜が見える。

 

奥の方・右岸側に洪水吐と導流部がある。

ちょうど隠れてしまっているが、堤体下部の白い枠のすぐそばには揚水機場がある。

ここで汲み上げられた水が石狩市の農地へ供給されているのだ。

 

ダム(貯水池)が造られたのは1930年。明治中頃に水稲栽培が始まった高岡地区は知津狩川の流域から個人が水利権を申請していた。

給水量の減少や水利権の整備のため、高富ダムと五の沢ダムがつくられた。

水害対策として高富ダムは防災・水量調節機能を追加。

2005年に竣工した。

 

2.五の沢ダム

ちなみに、五の沢ダムはすぐそばにあるのだが、見えるかどうかわからずスルー。

 

1車線の道を行くのが嫌であっさりあきらめたが、堤体はもしかしたら見えたかもしれない。

ここは防災機能なし。ちなみにこの道をさらに進むと、かつて石油を採掘していた石狩油田跡にたどり着く。

石狩川流域ドライブ ― 古潭 ―

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1.古潭漁港

国道231号線を北上し、望来を通り抜け古潭の集落までやって来た。

ここは漁港が整備されている。

 

 

釣り人の車がいっぱい。小さな漁船も停泊している。

 

高台から南側を見下ろしてみる。

消波ブロックの設置された辺りは海水浴もできそうな浜になっているが、その少し先は断崖。日本海の荒波に削り取られたのだろう。

 

この日も天気が良くて海は穏やかに見えるが、時折消波ブロックに波が激しくぶつかるのが見えた。実際には結構な激しさなのだろう。

 

北側を見てみるとこちらも崖の上に建物が建っている。

古潭は古潭川沿い・河口の平地に開けた集落である。

 

2.厚田村発祥の地と弁財船

江戸時代、古潭と北隣の押琴は厚田地区の漁業の中心地として栄えていた。

和人が暮らすのは漁期のみであったが、1858年からは通年で居住するようになる。

運上屋が設置され、天然の良港であった入江には弁財船が投錨するようになる。

明治初期には開拓使の厚田出張所が置かれた。

これをもって厚田村の発祥とし、漁港入口のその記念碑が建てられている。

 

 

 

 

隣には弁財船投錨地の碑。

 

弁財船は別名北前船で有名。

春から秋にかけて大阪を出港し、瀬戸内海から日本海を北上する弁財船は北海道と本州を結ぶ唯一の交通手段だった。交易だけではなく、物資の運搬・文化交流など北海道沿岸部の開拓に大いに貢献した。

 

1872年に創建された古潭八幡神社。階段を上ると港と集落を一望できる。

 

3.古潭のその後

1873年には駅逓設置、1880年厚田郡10村の戸長役場が設置される。

しかし、その2年後戸長役場は別苅に移転。

古潭は厚田郡の中心ではなくなった。

明治中期には農業者の移住が始まる。現在も国道231号線の東側、古潭川沿いは農地が広がっている。

 

1902年厚田郡の6村が合併し、厚田村が発足。

明治20年代にはニシン漁が最盛期であった厚田村だが、明治30年代に入ると漁獲量は減少していく。漁場は樺太へと移っていった。

1907年厚田村と望来村が合併し一級町村の厚田村が発足。

その後は漁業・農業を主とする小さな村として存続してきたが2005年に石狩市と合併。

明治期には人口500人以上を超えていた古潭地区も平成の終わりには50人を切る。

 

古潭小中学校も1990年に閉校。

 

 

校舎はまだ残っている。綺麗な状態なので何かに使っているのだろうか。

 

入口の脇には記念碑も建てられていた。

 

国土地理院地図による1970年代の航空写真。

 

まだ漁港は建設されていない。

石狩川流域ドライブ ― 聚富 ―

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1.伊達邦直主従北海道移住の地碑

さけまつりと本町エリアに別れを告げて、車に乗り込む。

次の目的地は石狩川を渡って少し先に。

聚富(シップ)集落の中にある。

国道231号から左折して海の方へ進むと、牧草地・畑地の一角に記念碑が建っている。

 

 

伊達邦直主従 北海道移住の地碑である。

 

伊達邦直は、仙台藩主伊達家の分家にあたる岩出山伊達家の幕末の当主。

戊辰戦争で敗軍となり、所領を没収される。路頭に迷う家臣を救うため北海道開拓に志願する。

当初は空知地方の支配を命じられる。今の奈井江町で調査を行ったが、内陸で人もモノも輸送が困難なため、開拓使との交渉で海岸近くの荷揚げ地を貸し与えられる。そういった前進基地を兼ねて入植したのが聚富であった。

 

1871年、伊達邦直を主とする一団が聚富に到着したものの、聚富は砂地で畑作に適さず、困窮する。再度開拓使と相談の上、調査によって当別が適地とわかり1872年に移転。現在の当別町の基礎を築いた。

 

ススキの向こうには牧草ロールが並んでいる。

もう秋の風情である。

 

2.聚富開拓の碑

再び国道へ戻る道でもう一つ石碑を見つけた。

 

開拓の碑とある。

 

 

聚富地区の開拓の歴史が刻まれていた。

伊達邦直の一行が聚富を去った後、なかなか開拓は進まず。

ちなみに現在は石狩市域だが、平成の市町村合併の前は厚田村の南端だった。

厚田村は江戸時代よりニシン漁の場所が開かれていたが、聚富は遠浅で船着場を確保できなかったためか、漁師の定住はなかったようだ。アイヌの小さな集落の形跡が後年の開拓の際に発見されている。

 

1895年になって淡路島の団体により開拓が再開される。

やはり地味の悪さからなかなか開拓は進まず。

しかし、奮闘が実って集落は内陸部を中心に次第に発展。

明治中期には小学校も設置された。

大正末期には厚田~石狩間の路線バスも運行開始。

戦後は聚富農業協同組合も設立。

 

 

集落の中央部分にあった小中学校は2020年に閉校となった。

 

3.知津狩川

旧石狩町と旧厚田村の町境であった知津狩川石狩川支流の中で最も下流にある。蛇行が多く、大雨のたびに水害が発生していた。昭和初期に上流部に貯水池工事、国営改修工事が行われ改善。

さらに、日本海へと流れ込んでいた河口部は石狩川へ注ぐ河道が作られ、こちらが知津狩川の本流となった。

切り離された部分は旧知津狩川とされ、独立した二級水系となっている。

右岸にはかつて油田があった。

石狩川流域ドライブ ― 旧長野商店 ―

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1.旧長野商店

いしかり砂丘の風資料館は入館料300円。

見学した人は隣の旧長野商店もあわせて見学できるようになっている。

 

 

まずは外観

石狩市で現存する最古の木骨石造建造物。

920個の軟石を利用しており、瓦屋根やうだつなど日本の伝統建築とアーチ窓など西洋建築を取り入れた和洋折衷の建築様式である。

 

別角度から。

 

 

向かって左側にある黒っぽい店舗ができたのは1894年とのことだが、右側の白い石蔵はその10~15年前に竣工した札幌市の建築物と酷似しており、その頃にできた可能性があるそうだ。

 

それでは早速中を見学。

長野商店は新潟県出身の長野徳太郎が1874年に創業。

米、塩、呉服、反物の販売の他酒造業も営んでいた。八幡町に酒蔵があり、清酒・濁酒・焼酎を醸造していたそうだ。

当時の石狩は東北・北信越からの転入者が多く、戦前の漁業者の2/3が新潟出身の越後衆だったそうだ。

 

1955年の閉店後、石狩市に建物を寄贈。

元々は親船町にあったが、道路拡張などでこの場所に移築。

石狩町の繁栄を現在に伝える数少ない建物である。

 

2.石蔵

明治~大正期の店内を復元した店舗から、隣の石蔵に入る。

建物の建築時に使用されていた鬼瓦。

白石村の遠藤工場で作られたレンガが利用されている。

レンガ製造が盛んだった白石村の名残はこちら。

kamonji224.hatenablog.com

 

120年以上前の石蔵。ここには米・味噌・醤油・酒・砂糖が保存されていた。

 

木造の壁と屋根。綺麗すぎて歴史を感じない笑。

 

明治時代の石狩市街。内陸部への交通路であった石狩川の玄関だった。

鉄道や陸路が整備されるまで船が交通の中心。

運上屋から渡船場までが最初に市街地のできた本町地区。

 

ひなたGISより戦前と現在の石狩の地図。

水色の丸で囲んだところが渡船場

対岸の八幡町も渡船場の近くが町の中心だった。

 

長野商店の構造。

要石に装飾のある石蔵と石をはめ込んだだけの店舗ではアーチ窓の構造が異なる。

外観軟石はV字の刻みこみが特徴的な薬研目地。

屋根の骨組みも異なるらしい。

 

石蔵土間の礎石。解体作業中に発見された。



3.ホタテイクラ

長野商店の見学後、せっかくなので屋台で昼食にする。

どこのお祭りにもありそうな屋台もあるが、石狩ならではの店も。

やはりサケがいいだろう、ということでイクラとホタテがのった少し小ぶりの丼。

プチプチのイクラと、甘くほのかにしょっぱく味付けされたホタテが上手い。