目次
1.松島海岸駅
さて、松島を堪能した我々一行。
だいぶ足腰も疲れたのでそろそろ別れを告げることに。
帰りは松島海岸駅から仙石線に乗って行く。
松島海岸駅は少し高台に位置し、ホームから海岸を望める景観の良い駅だ。
松島海岸駅。リニューアル工事中。
道中にあったマンホール。五大堂と島々が描かれていた。
松島海岸駅は1927年、宮城電気鉄道の松島公園駅として開業。
1944年宮城電気鉄道国有化。同時に松島海岸駅に改称。
現在駅舎の工事中でこの冬には新駅舎の利用開始予定である。
ホームは1面2線の構造。観光地の玄関駅でありながら、エレベーターやエスカレータもなく開業時の姿のままだったが、ついにバリアフリー対策などを施すことに決定。
現在行われているのはこの工事である。
2.多賀城駅
電車に揺られ、仙台への帰路で途中下車。
降りたのは多賀城駅。
1925年仙台駅から西塩釜駅までの開通時に開業となった。
2007年より高架工事が始まり、2013年に完成。
2面3線のホーム構造。仙石線の中では利用者数第3位で陸前高砂~陸前浜田間の各駅を管理している。
3.多賀城市マンホールカード
駅内の観光案内所でマンホールカードを配布中。
描かれているのは多賀城碑の覆屋と周りに植えられた桜の花。
覆屋は江戸時代に設置された。
石碑の位置はかつて多賀城があった丘陵の上。
そもそも多賀城とは724年に京の朝廷が北方の蝦夷への防柵として築いた城である。
規模としては砦、当初は本当に柵程度だったのかもしれない。
仙台平野は稲作に適しており、早くから大和朝廷の支配下であったようだがその北方は採集生活を主とする蝦夷の支配地。奈良時代にはこの辺りが国境であったと言えるだろう。
碑を建てたのは藤原朝狩。奈良時代権勢をふるった藤原仲麻呂の息子である。
司馬遼太郎著「街道をゆく 26」にもこの多賀城及び多賀城碑についての記述がある。
碑に刻まれているのは多賀城から京、蝦夷との国境、常陸国、下野国からの距離。
そして靺鞨(まっかつ)国との距離である。
靺鞨国とは現在における中国の東北部やロシアの沿海州にあった国。後の渤海国。日本各地との距離から唐突に外国が現れるのは一見不思議だが、当時の日本を取り巻く国際環境では当然のことだったのかもしれないと結んでいる。
さて、位置関係を示す文面の次に刻まれているのは「この城を建てたのは大野東人(おおののあずまひと)である」という内容。
司馬の推測によれば、京都から国境付近にやってきて戦を防ぎ、稲作地を広げた大野東人の功績に感動した藤原朝狩が碑を建てたのではないかとしている。
かなり古いものなので、後年に何者かが捏造したという説もあるが、現在は真作であるという説が優勢のようだ。
残念ながら今回は訪問できなかったが、何とか機会を作って訪れてみたい場所である。
ちなみに現物のマンホールは駅北口近くの交差点にあった。
さて、再び電車に乗って仙台に向かう。
駅前ビルの居酒屋で夕食をとり、そのままホテルへ直行。
2日目が終わった。