目次
1.遊覧船に乗って
いよいよ遊覧船に乗り込んで島々を巡る。
仁王島
仁王像のように見えることから名づけられた。
数多くの島がある松島湾を代表する奇妙な姿は、長年の波の浸食によって作られた。
対岸の塩竃市。
船からは群島を一望、というのが難しいのと数が多くてそれぞれの島を覚えきれなかったのが残念だが、のんびりと眺めているとあっという間に時間が経つ。
船に乗ること自体が非日常的な体験なので、それも楽しかった。
2.松島の地形
松島の地形はどのように形成されたのか。
ヒントは内陸部にある。この辺りは宮城県の南北の境目となる松島丘陵が広がる地域。
歴史的にも南側は早くから大和朝廷の支配下となったのに対し、北側は長い間蝦夷の治める土地であった。
その松島丘陵の東端が海面上昇で海に沈みリアス式海岸となった。
さらに沈降が進み、山頂部のみが海面から顔を出しいくつもの島となった。
また、侵食・風化を受けやすい地形のため長い歴史の間に風景も少しずつ変化したものと考えられている。
もちろん東日本大震災でも影響があったようだ。
3.松島町の歴史
松島は古くからの観光地であると同時に、街道の分岐点でもあった。
塩田も近くにあり、米を江戸へ運ぶ中継地でもあったため、倉庫が多く役人や商人が逗留する宿場町でもあった。
1889年松島村が発足。
1928年松島町となる。
2011年東日本大震災の被害を受ける。地形のためか周辺地域に比べると被害は軽微であったとも言われている。
産業は観光業の他に水産業、特にカキが有名である。
4.街道をゆく
司馬遼太郎著 「街道をゆく 26」に松島についての記載がある。
松島の景観を評したものと言えば、松尾芭蕉の句が有名である。
しかし、司馬遼太郎はこの本の中で芭蕉の俳句ではなく「おくのほそ道」の紀行文を取り上げている。
司馬の意訳によると
「松島の美は言い古されたことではあるが、日本第一の景観にして中国の洞庭湖、西湖にも恥じぬ。多くの人が言葉を尽くして歌を詠んできた。
島々の形の妙は全てここにある。天をゆびさすもの、波に腹這っているもの、二重や三重に重なっている島々が左へ右へと別れたり連なったりする。
隣の島を背負っているようなもの、大きな島が小さな島を抱いてまるで子供を慈しんでいるようなもの。
松の緑も濃密で、潮風に吹かれているうちにまるで人の手で曲げられたような姿。
見とれているうちに美女の顔さえ想像してしまう。
心があまりに昂って、句作を断念し寝ることもできなかった。」
そしてこの紀行文には
「松島や鶴に身をかれ(借れ)ほととぎす」
という弟子の曾良の作を挿んでいることも紹介している。
この芭蕉の嘆息を表した文が、後世「松島や ああ松島や 松島や」という句に変わったものと推察し、作品を発表する際は推敲に推敲を重ねていた芭蕉が後世に残すような句ではないだろうと憤り芭蕉の名誉を回復しようとしていた。