滝川周遊 ― 滝川市郷土館 ―

目次

 

1.屯田兵と滝川の開拓

SLを鑑賞した後は郷土館を見学。

 

 

入館料を支払ってスタート。

最初の薄暗いエリアは屯田兵の暮らしから。

囲炉裏を中心とした家の造り。

冬はとても寒そうだ。

 

滝川、そして江部乙に入植した屯田兵たちとその出身地。

 

勤務は日の出から日没まで。朝4時には起床ラッパが響き渡ったという。

 

滝川に屯田兵が入植したのは明治の半ば、1889年。

兵村は南北に分かれており、根室本線の北側・西一丁目通り付近から北に広がっていた。東西は函館本線を西端、国道12号線がほぼ中央に貫くように構成されていた。

 

滝川兵村は士族による最後の屯田兵募集だった。

滝川への屯田兵入植の前に、奈良県十津川村の水害で被災した移民たちが、一時期滝川を仮の住まいとしていた。

その後、隣町である現在の新十津川へ移住。丸木舟で石狩川を渡ってトック原野開拓に従事した。

 

兵村南側の番外地にできた丸井呉服店。昭和初期に金物屋に転身。

平成30年に閉店・歴史ある建物も取り壊しとなったがセイコマの厚意で一部を保存することができた。

 

屋号が刻まれたうだつと鉄柱の一部が郷土館に所蔵されている。

後ろの白壁は建物を再現したものかな。

 

屯田兵移住の2年ほど前から、上川道路開削の準備のため和人の定住が始まった。

屯田兵の入植と併せて商店街も形成され現在の中心街の基盤ができつつあった。

 

滝川周辺の航空写真と開拓時の位置の説明文。

空知川対岸の空知太付近も市街化の予定だったが、水害により頓挫。

その後旭川・滝川の発展によりそのままとなった。

 

これはSLの動輪だったかな・・中に貨物車を引き連れて走行する蒸気機関車の写真が。

 

2.人造石油

滝川にあった人造石油工場の模型。

 

第二次世界大戦前後のエネルギー不足時期に開発された。

計画を手掛けたのは三井物産の石炭部門に勤めていた渡邊四郎氏。

北海道の良質な石炭が人造石油に不可欠と考えていた氏は、道内に工場を建設することにこだわった。

 

産炭地に囲まれた滝川が工場に適地と考え、建設にこぎつけた。

しかし渡邊氏は空襲で死去。戦後GHQから人造石油の停止も命じられる。

 

すでに竣工していた工場は滝川化学工業と名を変えて稼働。

しかし、採算は向上せず数年で閉鎖となってしまった。

工場跡地は自衛隊駐屯地と北電変電所になっている。

 

 

地理院の地図・空中写真サービスによる1948年の航空写真。

滝川駅北から西へ分岐して大きな工場に向かっている路線がわかる。

 

 

3.高畑利宜

前回もちらりと触れた高畑利宜について。

出生は現在の京都府である山背国。幕末に倒幕運動に参加。

維新後、開拓使に勤務し空知・上川の調査や開拓に寄与した。

 

滝川に屯田兵入植の頃、官職を辞し駅逓を経営。

現在の国道12号線の整備に大きく貢献した。

その後事業を拡大するも、不正や水害などで財産を失う。

しかしへこたれることなく、運送業さらに滝川の学校や警察など公共サービス整備に寄与した。

 

4.滝川の歴史その他

滝川で発掘された石器。

 

石狩川空知川と河川に恵まれ、古代から人々が居住していようだ。

土器や石器が出土している。

 

明治維新後も内陸部はアイヌの人々しか住んでいなかった。

高畑利宜は石狩川を遡り、上川の調査を行った。

 

開拓には交通路の整備が不可欠。現在の国道12号線は重要な幹線として開削された。

 

人々の往来に重要な役割を果たしていた駅逓。

岩見沢旭川間に5か所設置された。宿泊や馬の交代などができるようになっていた。

 

郷土館、かなり楽しかったです。

 

今日のチバユウスケ