目次
1.札的駅
同じく田園地帯の中に次の札的駅(さってきえき)が待っている。
この駅は戦後の1960年に開業、当初より旅客のみの取り扱い駅だった。
国道275号から左に曲がったところにある踏切が出入口。
まずは古ぼけたモルタルの待合室を鑑賞。
待合室への入り口はホームに面しているものだけ、というのはちょっと珍しい。
ホームの反対側は防雪林。
ホームの舗装は今まで巡った札沼線の駅の中では一番綺麗かもしれない。
待合室には荷物置き場も。
さて、この隣の駅は浦臼町の中心部にある浦臼駅だが、こちらも訪問したことがあるので、今回は立ち寄らず。
2.札的駅と近隣の歴史
札的駅の位置する住所は札的内。北海道は多い「ナイ」(アイヌ語で小さな川の意味を表す)が、なぜか駅名をつけるときに削除されてしまった。
札的内は樺戸道路開通後、明治26年(1893年)高知出身の武市安哉が開拓を始める。
彼はキリスト教徒であったことから聖園農場という名をつけて、この地の中心となっていく。また、児童教育のため教会堂を小学校に兼用させることとした。
これが聖園小学校、現在の浦臼小学校となる。
しかし、順調に見えた開拓も束の間、武市が所用で向かった故郷高知からの帰りの船中で急死してしまう。
その後にやって来たのが坂本直寛。 かの有名な坂本龍馬の姉夫婦の次男、つまり甥にあたる人物である。
自由民権運動で活動したのち、高知県から北見へ移住する北光社のリーダーとして北見を開拓する予定であった。
しかし、武市の急死によって中心人物を必要としていた聖園農場の経営者となった土井勝郎などの勧めもあり浦臼に居住することとなる。
1898年直寛の兄、直が高知で没。妻の留と息子の直衛が直寛を頼って浦臼に移住。
留は石狩川渡し場近くで菓子店を営んでいたらしい。
直衛は1921年水難事故で死去。今も浦臼町には武市と坂本親子の墓が残っている。
直寛は水害からの復旧などに力を注ぐが、後年はキリスト教の伝道に専念し1911年札幌で没した。
札的駅付近は田園地帯となっている。
大正期、あるいは戦後に札的沢で炭鉱から石炭が採掘されたが長期稼働には至らなかった。
札的駅は1960年開業。当初より旅客のみの取り扱いだった。
気動車導入による高速により、住民の請願駅や仮乗降場が多く設置された時期である。
2020年札沼線廃止により廃駅となった。
1970年代の国土地理院地図の航空写真。
駅のすぐ横に用水路が通っている。
そのため道路から待合室に直接入ることはできず、一度ホームに上がって、ホームからの入り口を通らなくてはならなかった。
後年、用水路は廃止または暗渠化されたが駅の構造は変わらず。
少し珍しい待合室のまま引退することとなった。