今日は2015年2月10日放送の空から日本を見てみようで紹介された岡山県の岡山市について調べてみた。
人口は約72万人。
中国地方では2番目に大きな市である。
北部はなだらかな丘陵が続く吉備高原に属し、南部は干拓地を含む平野が広がる。
平野部は穀倉地帯となっている。
降水日数が最も少ない県庁所在地である。
政令指定都市であり、4つの行政区にわかれている。
まずは北区。
面積、人口共に最大であり市の中心部も含んでいる。
中心部はかつての岡山藩の城下町であった。
岡山城は明治後の取り壊しや空襲などでほぼその姿を失い、戦後天守などが再建された。
戦国期には宇喜多家の居城であった。
五大老の一人であった宇喜多秀家が関ケ原の戦いに敗れ、島流しとなった後は小早川秀秋、さらに織田信長の家臣であった池田輝政の子孫が代々城主となる。
天守の北西にある月見櫓は唯一現存する江戸期の建物である。
また一帯は烏城公園という公園となっている。
旭川の向こう側には江戸期に庭園が造られ、明治の初めに後楽園と名づけられた。
現在でも日本三名園に数えられ、岡山城と共に岡山市のシンボルと言える。
北区北部は古代の吉備国に属する。
大和国や出雲国と並んで強大な勢力であったとされる地域であり、豊かな地勢であったことが推測される。
津島遺跡は全国で初めて弥生時代の住居と水田跡が同時に発見された遺跡。
造山古墳は全国第4位の大きさで、一般人が立ち入りできる墳丘では最大である。
また吉備津神社など古社も鎮座し、吉備国の中枢であった名残が今も残る。
隣の総社市も含む一帯は吉備路と称せられ県内でも有数の観光地となった。
足守地区には江戸時代の街並みが保存されており、福沢諭吉が学んだ緒方洪庵の生家もある。
続いて中区
面積は最も狭く、人口密度は最も大きい。
百間川は江戸期に造られた。堤防の切れ目に陸閘や洗い越しなどが多く設けられていたが、昭和の改修によって役目を終えた。
仏教系の史跡が多く、賞田廃寺跡では地方ではなかなか見られない凝灰岩の基壇が発見された。機内の有力寺院でしか確認されていないものであり、この地と中央部の政権に強いつながりがあったことが伺える。
次は東区
北部は山間の地形になっている。
瀬戸内海には市内唯一の有人島である犬島が浮かんでいる。
万富地区では源平合戦で焼失した東大寺の再建の際に瓦を焼き、その遺構が今でも残る。
犬島は銅の精錬や採石が長く行われ、現在では元々の地形とは大きく姿を変えている。
現在では海水浴にキャンプ、そしてアートプロジェクトも開催され観光客が多く訪れるようになっている。
最後は南区
区域の半数以上が江戸時代から昭和初めまで行われた干拓による造成地である。
旭川など複数の川が流れ込み、ダム湖を除く世界最大級の人造湖である児島湖や児島半島の金甲山・貝殻山など景観に優れる。
米、麦、その他野菜など農業が盛んである。
児島湾の奥を締切堤防によって区切り、淡水化した。
干拓地の水害塩害などの解消を目的としたが、一方では漁業の衰退も招いてしまう。
干拓地の住宅化が進んだこともあり、水質汚染も激しく長年の課題となっている。