札幌史跡探訪 ― 大学村の森 ―

目次

 

1.大学村の森

麻生から創成川東側を南へ戻る。

最後に1か所寄り道

 

 

大学村の森。

かつて北大(札幌農学校)の第3農場があった地域。

官舎があったため、大学村という通称がついた。

 

昭和末期、札幌市の緑地として整備される。

平成中期には官舎跡地を取り込んで現在の区画となった。

一度は荒れ果て、治安も低下。しかし近隣住民の奮闘によって、今では住宅街の中に突然現れる整備された森となり、市民の憩いの場となっている。

 

鬱蒼とした森。ハンノキやハルニレの木々を保全している。

 

案内板。子供たちが遊べる遊具ゾーンや野草の生育ゾーンなど幾つかにエリアを分けている。

 

案内板も草花に囲まれて華やかな様子。

 

森を蘇らせ、守っている会の活動。植生の維持と公園機能を並立させるように日々頑張っている様子。

 

2.大学農場の歴史

設立間もない札幌農学校、教頭として赴任したウィリアム・クラークの提言によって実践を中心とした農業教育が行われることとなった。

そのために確保された農場が大学農場の始まりである。

研究を中心とした第1農場は北海道大学南門周辺にあった。

 

 

畜産農場経営の実践を学ぶ第2農場は、今も北18条付近に施設が残されている。

 

 

そして第三農場は大学が農場を管理し、その収益を農学校が資金として活用できるように設置された。

大学が取得した当時はレツレップ(烈々布)という地名。

元々は後の北海道帝国大学初代総長佐藤昌介の提唱によるものだった。

しかし、法律が変わり官庁が資産を所持することが禁止されてしまう。

そこで農学校はいったん土地を返却し、農学校同窓会が所有することに変更。

農園を開くことができた。

その後組織改編により、農学校は資産所有可能に。同窓会は農学校へ土地を寄付。

こうして1895年正式に第3農場として命名、小作農場として開墾始まる。

近隣には成墾の碑が建てられている。

 

 

第二次大戦後の農地改革により、第3農場も徐々に開放されていく。

一方で北大は学部が増え、多くの教官を招聘。農場付近に官舎を建築した。

この頃から通称大学村と呼ばれるようになる。この時に残った森が現在の大学村の森の原形。その後、使用されなくなった官舎群は再び森の敷地に組み入れられている。

 

今昔マップより

1916年、35年の地図には第三農場という文字が明確に記されている。

1970年代の航空写真では、森を囲むように集合住宅が建てられている。

現在は森の面積が拡張しているのがわかる。さらに東側は集合住宅群となった。